No.17「渋沢栄一からの手紙」(歴史民俗資料館)

更新日:2023年10月17日

 『歴史の小箱』では、当館に寄贈・寄託された資料の中から、オススメの1点を展示・紹介しています。(一定期間展示した後に収蔵庫に戻します)
 第17回目は、近代産業の父渋沢栄一と毛呂山のつながりを物語る「渋沢栄一からの手紙を展示・紹介しました。

渋沢栄一について

 2024年の上半期から流通する紙幣のデザインが変更され、近代産業の父として知られる埼玉県の偉人渋沢栄一が一万円札に描かれることが決まり、渋沢栄一の業績について注目が集まっています。
 天保11年(1840)に血洗島村(現在の深谷市)に生まれた渋沢栄一は、幼少期に家業の藍玉販売を通して学んだ商才と、青年期に仕えた一橋徳川家でのパリ万博随行で目の当たりにしたヨーロッパの優れた産業を学んだ経験を活かし、明治大正時代に多くの企業設立に関わり、日本の産業の発展に貢献しました。
 生まれ故郷の埼玉とのつながりの多い渋沢栄一は、埼玉県内にも数々の足跡を残しており、毛呂山町にも渋沢栄一関連の資料が残されていました。

明治45年の渋沢栄一越生旅行

 明治45年(1912)4月14日、渋沢栄一は、入間郡銀行会の招きを受けて越生町を訪れ、越生尋常高等小学校にて銀行関係者や織物業者向けの講演を行いました。
 越生町には、明治29年(1896)に毛呂村と越生町の有志5名が発起人となり設立した越生銀行があり、銀行設立にあたり栄一は援助や助言を行っていました。
 渋沢栄一の日記や当時の様子を書き記した雑誌の記事からは、2日間の間に越生町、毛呂村、川越町を回り、地方でも産業や経済の重要性を伝える栄一の姿が伺えます。
 また、この旅で栄一は、明治元年(1868)の飯能戦争で自決した養子の渋沢平九郎が最後を迎えた黒山を訪れ、平九郎の死を偲んでいます。

左:室内に沢山の子ども達が集まっており、前方の講演台の前に立って話をしている渋沢栄一が映る白黒写真と右:講演台で渋沢栄一が話をしている拡大写真

 越生尋常高等小学校で講演を行なう渋沢栄一

左:左側は木々が生えた山の斜面になっており、右側にはごろごろと大きな岩がある場所に挟まれた道に沢山の人が集まっている様子を写している白黒写真、右:黒い帽子を被りコート着た渋沢栄一が映る白黒の拡大写真

 渋沢平九郎自決の地を訪れた渋沢栄一

渋沢栄一の手紙

 この手紙は、明治45年(1912)4月17日に渋沢栄一が毛呂村村会議員を務めていた栗原勘次郎に宛てた手紙です。
 毛呂村有志の懇請により越生訪問の翌日の4月15日に毛呂村を訪れた栄一は、毛呂尋常小学校と出雲伊波比神社を訪れ、記念の植樹を行いました。
 栄一の毛呂滞在は3時間ほどで、こののち川越から汽車で王子の自宅に戻った後、夕方には関西の銀行大会参加のため大阪へ出発する、という忙しい一日を過ごしています。
 手紙には、この時に毛呂で受けたもてなしに対する感謝の気持ちと川越で別れてから無事帰宅できたことが記されており、多忙な中でもお世話になった人への感謝の気持ちを忘れない栄一の人柄が伺えます。

栗原勘次郎宛 渋沢栄一 御礼状 (明治45年)

白い紙に流れるような文字で書かれている渋沢栄一からの手紙の写真
渋沢栄一からの手紙 読み下し文の写真
黒縁の丸眼鏡をかけ、スーツ姿の栗原勘次郎の肖像画

 栗原勘次郎肖像画

 栗原勘次郎は、長瀬の豪農の家に生まれました。
 毛呂村村会議員や毛呂村村長を務め、越生銀行の設立や鎌北湖の建設に尽力した人物です。
 渋沢栄一とは、越生銀行の設立に対して助言を求めた時を契機に交遊をもつようになったとみられ、栄一の毛呂村表敬には、勘次郎のはたらきかけがあったものと考えられます。

渋沢栄一にまつわる石碑

 昭和3年に有志の手によって出雲伊波比神社の北参道脇に建てられた「臥龍山公園之碑」は、碑文を渋沢栄一が揮毫しており、栄一と毛呂山のつながりが、栄一の晩年まで続いていたことが伺えます。
(建碑の世話人には、当時毛呂村村長を務めていた栗原勘次郎や、後に山根村との合併により毛呂村として最後の村長を務めることになる堀江泰助が名を連ねています)

緑に囲まれた場所に建てられている「臥龍山公園之碑」の文字が刻まれている石碑の写真

 臥龍山公園之碑

この記事に関するお問い合わせ先

歴史民俗資料館

〒350-0432
埼玉県入間郡毛呂山町大字大類535番地1

電話番号:049-295-8282
ファクス番号:049-295-8297

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