No.26「関東大震災から100年」(歴史民俗資料館)

更新日:2023年10月17日

 『歴史の小箱』では、当館に寄贈・寄託された資料の中から、オススメの1点を展示・紹介しています。(一定期間展示した後に収蔵庫に戻します)

2023(令和5)年は、関東大震災が発生してから、ちょうど100年になります。
第26回目は、大震災の被害の甚大さを現代に伝える紙芝居「焦土と化すとも」を展示・紹介しました。同時に大震災当時の毛呂山の様子を人々の記憶から紹介しました。

関東大震災から100年

今からちょうど100年前の1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生し、南関東一帯などでは甚大な被害を被りました。都市部では震災後、同時多発的に火災が起こり、死者・行方不明者は10万人以上になりました。

埼玉県内では大きな火災は発生しませんでしたが、倒壊した建物の下敷きになるなど、343人の犠牲者が出ました。特に県東部・南部の川口町(現川口市)、粕壁町(現春日部市)、幸手町(現幸手市)での被害は大きく、三大被災地と呼ばれています。

記憶の中の関東大震災

当時の毛呂山の様子は、大震災を経験した人々の記憶が、伝えています。

『毛呂山民俗誌Vol.1』からいくつかを紹介します。

○激しい揺れの恐怖・・・当時の毛呂山の被害状況、余震

・西大久保地内の八坂神社の鳥居が倒れた。

・墓地の石塔や神社の燈籠が倒れた。

・味噌蔵や土蔵が倒壊。家や土蔵の壁、屋根瓦が落下。

・道路のひび割れや地割れができた。

・井戸水や生活排水が揺れてあふれ出た。

・12時半ごろ大きな余震があった。

○目に見える恐怖・・・震災後の出来事

・震災後3日間、東京方面の東の空が火災で赤く染まった。

・東京から家財道具を荷車に積んで、徒歩で引き揚げて来た家族がいた。

・東京に親せきのある家では、食糧を背負い、徒歩で東京に向けて出かける人もいた。

○目に見えない恐怖・・・飛び交う流言、デマ

・焼け出された朝鮮人が大挙押し寄せるとの情報で、鎌、竹槍、日本刀などの武器を手に村の鎮守に集結した。

・朝鮮人がいたずらをするらしいというデマがまことしやかに飛び交って、自警団が組織され、竹槍を持って夜間の警戒にあたった。西大久保地区では、坂戸市成願寺境の平地林が両側に続く道路際で待機した。

震災を経験した多くの人は、当時の情報を流言、デマ、噂と伝えています。また、目に映る東京方面の真っ赤な空も記憶から離れることなく、語られていました。

紙芝居「焦土と化すとも」

紙芝居の舞台は、現在の東京都千代田区神田佐久間町・神田和泉町・神田松永町の一部(JR秋葉原駅付近)です。

紙芝居は大震災の発生で始まり、発生直後に街の小学校に火の手が上がります。この状況に対し、住民たちは協力して消火しました。その後も街のあちこちで上がる火の手に、住民たちは二日二晩、不眠不休で消火活動を行いました。そして住民たちは、約1630戸の家屋と備蓄米のあった米蔵を火災から守り抜きました。これら紙芝居に描かれた絵の風景は、被害の甚大さを現代に伝えており、貴重な資料といえます。

大震災での住民たちの活躍は、アメリカ軍の本土空襲から国土を守り抜くための教訓とされ、1945(昭和20)年3月に戦意高揚を目的として本資料が出版されました。

重々しい雰囲気を感じさせる表紙

重々しい雰囲気が感じられる表紙

倒壊した建物に埋もれた街

倒壊した建物に埋もれた街

小学校に上がる火の手

小学校に上がる火の手

バケツリレーによる消火活動

懸命のバケツリレーによる消火活動

ポンプによる放水と絶え間ないバケツリレー

ポンプによる放水と絶え間ないバケツリレー

火災から街を守り抜き万歳を声を上げる住民たち

火災から街を守り、万歳の声を上げる住民たち

この記事に関するお問い合わせ先

歴史民俗資料館

〒350-0432
埼玉県入間郡毛呂山町大字大類535番地1

電話番号:049-295-8282
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