毛呂山町の「鎌倉街道上道」国指定史跡に!

更新日:2022年06月17日

  令和4年6月17日、国の文化審議会は、毛呂山町の鎌倉街道上道を、国の史跡に指定するよう文部科学大臣に答申しました。
  毛呂山町の鎌倉街道上道は、「中世の街道の遺構が良好に保存されているだけでなく、宿場と墓域、その境界という一体的な空間が残り、中世の街道の状況を明らかにする重要な遺跡」として評価されました。
  毛呂山町での国指定史跡は初めてで、街道を中心とした国の指定史跡は県内初となります。

 

鎌倉街道上道

  鎌倉街道は、鎌倉時代から室町時代にかけて整備された鎌倉と関東諸国を経て各地を結んだ主要街道の総称で、鎌倉から武蔵国(むさしのくに)上野国(こうずけのくに)を経て信濃国(しなののくに)越後国(えちごのくに)へ向かう街道を「上道(かみつみち)」と呼びました。

  今回指定されるのは、毛呂山町域の上道で、街道跡は北から鎌倉街道B遺跡・同C遺跡・同A遺跡・仏坂(ほとけざか)遺跡の総延長1,305.9m、B遺跡を挟んで両側に広がる堂山下(どうやました)遺跡、その西側の崇徳寺跡(すうとくじあと)と想定されている箇所、堂山下遺跡と崇徳寺跡の南側に広がる川角(かわかど)古墳群の一部からなります。

  街道跡では、路面や側溝など道の遺構が良好に保存されています。中世の集落跡である堂山下遺跡は、同時代の文献史料にみられる苦林宿(にがばやしじゅく)の跡である可能性が高く、12世紀末から15世紀までの遺物が見つかっています。崇徳寺跡とされる箇所では墓域中心部において板碑(いたび)を立てて固定した跡が39箇所確認されています。また川角古墳群でも中世板碑が確認され、特に22号墳は崇徳寺跡の墓域造成の基準となった可能性があります。中世段階の川角古墳群のうち上道に直交する墳丘の範囲は、苦林宿の内と外を隔てる境界としての役割を担っていたと想定されます。

 

毛呂山町 鎌倉街道上道

鎌倉街道B遺跡 川角・大類の掘割遺構

鎌倉街道B遺跡  川角・大類の掘割遺構

崇徳寺跡南墓域で発掘された板碑列

崇徳寺跡南墓域で発掘された板碑列

堂山下遺跡でみつかった井戸跡

堂山下遺跡でみつかった井戸跡

鎌倉街道A遺跡  西大久保・市場の掘割遺構

毛呂山町鎌倉街道上道
(鎌倉街道A遺跡  西大久保・市場の掘割遺構)

鎌倉街道A遺跡  西大久保・市場の掘割道路状遺構

毛呂山町鎌倉街道上道
(鎌倉街道A遺跡  西大久保・市場の掘割道路状遺構)

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