平野への営み

更新日:2021年12月23日

展示棚に灰色の土器(須恵器)、赤い土器(土師器)、カマドの復元模型、壁にパネルが展示されている写真

 水稲耕作が盛んに行われ、住生活が安定した弥生時代の遺跡は毛呂山町ではほとんど見ることができません。
 わずかにまま上遺跡(西大久保)西ケ谷北遺跡(西大久保)で弥生時代中期の住居跡が発見されているだけです。しかし、山間部の滝ノ入地区の中在家遺跡でも後期の土器が出土していることから今後弥生時代の遺跡が増加することは十分考えられます。
 毛呂山町で規模の大きな稲作のムラが発見されたのは、古墳時代中期の矢島遺跡(下川原)です。矢島遺跡の竪穴式住居には、地面を掘りくぼめた炉(地床炉)のほか、壁際に粘土を使って構築された初源期のカマドと考えられる施設も発見されています。奈良・平安時代になると鉄器の普及により開墾が急速に進み、毛呂山町役場近くの伴六遺跡(岩井)、 まま上遺跡、築地遺跡(西大久保)等でムラが形成されました。

白布の台に赤い土器(土師器)が展示され、壁にパネルが飾られている写真
カマドの復元模型の写真
左側に灰色の土器(須恵器)、右側に赤い土器(土師器)、壁にパネルが展示されている写真
  • 左:矢島遺跡出土の土器(土師器)
     縄文土器や弥生土器に比べると器種が豊富になりました。
  • 中:平安時代の炊事施設カマド(復元模型)
     カマドは古墳時代中期から見られますが、定着したのは古墳時代後期になってからです。常設展示では、まま上遺跡の住居跡(平安時代)のカマドを推定復元しました。
  • 右:伴六遺跡、まま上遺跡出土の土器(土師器と須恵器)
     灰色の土器は須恵器、赤い土器は土師器。毛呂山町の遺跡から出土する須恵器の多くは、隣接する鳩山町の丘陵に広がる当時の大窯業地帯で生産されたものです。 用途によって使い分けがなされています。

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