西戸古塚記の碑が語る100年前の考古学事情

更新日:2021年12月23日

西戸古塚記の石碑の写真

毛呂山町の東部を流れる越辺川流域には、今から1300年ほど前多数の古墳が造られましたが、最も上流にあるのが西戸古墳群です。この西戸古墳群でかつて毛呂山町の考古学史を飾る記念すべき発掘が行われました。

そのようすは毛呂山町歴史民俗資料館の屋外広場に復元された西戸2号墳石室の傍らに建つ“西戸古塚記”の碑にはっきりと刻まれています。西戸古塚記の碑は、元は西戸2号墳の墳丘上に建っていました。現在全国各地で発掘調査が行なわれていますが、発掘調査の後に必ず発掘調査報告書が刊行され、公の記録として残されています。西戸古塚記はいわば“石でできた報告書”とも言える内容が刻まれていました。

発掘が行なわれたのは今から100年以上も前の明治26年(1893)のことで、地元の有志のほか、越生の人々も参加しました。碑文を要約すると、『秋の長雨によって行任塚(西戸2号墳)が崩れ、一畳ばかりの部屋が露出した。中には数体の遺骸があり、他に金環、鏃、鉄刀、玉類が出土した。この数体の遺骸は殉葬によるものだろう。殉葬の風習は垂仁天皇の時代に禁止されている。東国への殉葬禁止が伝わるのが遅かったである。』

このように、出土品の記載だけでなく、考察もなされています。古墳から複数出土する人骨については横穴式石室の特徴である追葬説が有力ですが、碑に刻まれた考察の内容は、当時の考古学の一般的な考え方を示す貴重な資料であるといえます。

なお、移転された“西戸古塚記”の碑は、毎年行われている拓本教室の生きた教材としても利用されています。

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