流鏑馬を支える人たち
流鏑馬の担い手は、中世、源頼朝の家臣だった毛呂氏が治めた領地ともいわれる旧毛呂郷の人たちです。旧毛呂郷は、第一祭礼区(毛呂本郷)、第二祭礼区(小田谷と長瀬)、第三祭礼区(岩井と前久保)という3つの地区から成り、各祭礼区はさらに祭馬区に分かれます。実際の運営は、その年の担当の祭馬区を中心に行われます。
流鏑馬は、行事の表舞台に登場する人たちのほかに、地域全体の多くの人たちによって支えられています。
表舞台に登場する人たち
乗り子
流鏑馬の射手は乗り子と呼ばれます。11月3日の秋の流鏑馬の乗り子は、祭馬区の忌み事のなかった家から15歳前後の少年が3名選ばれます。3月の春の流鏑馬では、7歳未満の男児1名が乗り子をつとめます。「7つうちは神の子」といわれるように、幼児は、より神様に近い存在と考えられてきたためです。子どもが射手となることは、毛呂山町の流鏑馬の特徴の1つです。
乗り子の基本的な姿は、陣笠、陣羽織と袴です。正装は、花笠をかぶり、背中に母衣(ほろ)を背負います。母衣は、背後からの矢を避けるためといわれます。騎射のときは、烏帽子をかぶります。
陣笠・陣羽織姿の乗り子
乗り子の正装姿
烏帽子をかぶった乗り子
矢取り
矢取りは、各祭礼区から1名ずつ選ばれた経験豊富な年配者で、陣列を先導します。陣笠をかぶり、重殿淵やミタラセ池で馬の口をすすぐ際に用いるひしゃくと、爪きりを腰にさしています。矢取りは、騎射のとき以外のほとんどの場面において、乗り子の弓と鞭を持っています。
口取り
乗り子や馬の世話をする人を口取りといいます。各祭礼区の弔み事のなかった家から10~15名の若者が口取りに選ばれます。口取りは、馬を清めるために、川入れや、馬を洗う「そそ湯」を行ったり、馬場を走る馬を止めたりします。流鏑馬のいろいろな場面で「ホイホイ」という口取りたちの威勢のよい掛け声が聞かれます。
流鏑馬を支える地域の人たち
- 出雲伊波比神社氏子総代会
氏子総代会は、祭礼区から数名ずつ選ばれた役員によって構成されています。流鏑馬行事が滞りなく執行できるように、馬場結い(馬場の整備)や、ミタラセ池の清掃、境内の草刈りなどを行い、「縁の下の力持ち」として流鏑馬行事を支えています。 - 出雲伊波比神社やぶさめ保存会
やぶさめ保存会は、流鏑馬が地域の民俗文化財として保存、継承されるよう行事全般を支える役割を担っています。流鏑馬行事が滞りなく行われるために、乗り子や矢取りの衣装の着付け、警備などを担当しています。 - 毛呂本郷やぶさめを守る会
11月1日以降の的宿の祭具作りは、毛呂本郷やぶさめを守る会の人たちが中心になっています。毛呂本郷やぶさめを守る会は、的宿のしきたりを継承するため、昭和61年、毛呂本郷の有志の人たちにより結成されました。爪きり、願的の矢の先につける神頭(じんどう)、乗り子の華やかな正装に欠かせない花笠や馬印(うまじるし)などの祭具を作っています。
神頭
爪きり
花笠・馬印
各祭馬区の人たち
9月から10月中旬にかけて、3つの祭馬区で祭具作りが行われます。夕的用の的、鞭、ブチ棒、ノロシなど、流鏑馬で用いられる祭具は、地元の人たちにより1点1点手作りされています。
長瀬地区の人たち(旗立て行事)
秋の流鏑馬では、参道に大きな幟旗が立てられます。11月2日早朝、長瀬一区、二区の氏子たちが輪番で「旗立て行事」を行っています。
幟旗は神様が訪れたことを表す飾りで、祭りのときに神様が降りるために、柱の頂上に榊の葉がつけられます。参道脇の幟枠には、「宇内静謐(世の中が穏やかであるように)」「禾穀豊穣(穀類の実りが豊かであるように)」の願いとともに、「長瀬 池田 前組 中組 後組氏子」と刻まれています。
長瀬地区の旗立て行事は、流鏑馬のはじまりを告げるものであり、欠かせない行事の一つです。
前久保地区の人たち(焼米饗応)
11月2日早朝から、前久保地区では、乗り子と一行にふるまうための焼米を作ります。焼米は、前久保地内の農家から奉納された米と大豆を材料に、忌み事のなかった男性のみによって作られます。
焼米は、戦場での非常食を表すものと考えられますが、「前久保の焼米を食べるとしゃくが治る、産後の肥立ちがよくなる、雷が近くに落ちない」との言い伝えもあり、地元の人たちに支持されています。
焼米をふるまう儀式は、前久保が祭馬区にあたらない年も、必ず前久保地区の人たちによって執り行われています。
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更新日:2021年12月23日