流鏑馬ゆかりの文化財散歩

更新日:2021年12月23日

重殿参り・町廻りコース(所要時間 3時間)

  1. 的宿
  2. 榎堂
  3. 重殿淵
  4. ミタラセ池
  5. 出雲伊波比神社
  6. 勝海舟の幟旗

 秋の流鏑馬では、11月2日早朝、長瀬地区の氏子によって神社参道に大きな幟旗が立てられます。
 祭馬一行は、本陣である的宿を出発し、越辺川のほとりにある重殿淵を目指します。重殿淵で馬の口すすぎを終えた一行は、前久保地区で縁起物の焼米をふるまわれ、神社下のミタラセ池で再び馬の口をすすぎ、神社で神官から接待を受けます。的宿を出てから、重殿淵を経て神社に至るまでのことを、「重殿参り」といいます。
 神社での接待を終えた一行は、口取り衆の「ホイホイ」というかけ声とともに、地域の繁栄を願って商店街を廻ります。これは「町廻り」と呼ばれています。

1.的宿(まとうやど)

的宿の建物の左側の裏手に続く入り口両脇に、細長い笹の木が立ててあり、中央辺りに本陣と書かれた提灯が掛けられ、笹の葉の辺りに藁紐で繋いでいる写真

 毛呂本郷にある的宿は、流鏑馬行事において本陣の役割を果たします。的宿では毎年9月から祭具作りが行われます。11月1日のノッコミでは、3人の乗り子は的宿に乗り込み、毛呂川で身を清めた後、的宿に宿泊しながら精進潔斎を続けます。11月2日深夜に乗り子が行う追出(おいで)の餅つきも、的宿で行われています。

2.榎堂(えのきどう)

住宅と道路の間の歩道に、通路をふさぐように立っている大きな榎の木の写真

 毛呂本郷の街道沿いに、1本の大きな榎があります。榎堂と呼ばれ、中世、この地を治めていた毛呂氏が最初に建てた屋敷跡であるとも、毛呂郷の領主で源頼朝に仕えた毛呂季光の墓所であるともいわれています。11月3日の夕的出陣の際、祭馬一行は榎堂を回って神社へと向かいます。
江戸時代、毛呂本郷の旗本仙石采女が、飢餓に苦しむ人びとを救うために大榎の空洞に大黒天を祀り、人びとが大榎をご神木として精進したところ、毛呂本郷が繁栄したという言い伝えがあります。

3.重殿淵(じゅうどのぶち)

2つの笹を地面に立て、綱で繋いだ前に馬を止めて、両側の男性が馬の口をすすいでいる写真

 11月2日には重殿参りと町廻りが行われます。越辺川のほとりにある重殿淵は、神社下のミタラセ池で落としたひしゃくが流れ着いた場所という言い伝えがあり、祭馬一行が必ず訪れなければいけない神聖な場所とされ、馬の口をすすいでお清めを行います。

外秩父の山々をバックに祭馬一行が練り歩いている重殿参りの写真

焼米の接待を受ける前久保集会所までの途中、外秩父の山々が美しく映えるビューポイントがあります。

4. ミタラセ池

入口の柵に2つの笹を差し綱で繋いだ前に馬を止めて、両側の男性が馬の口をすすいでいる写真

 ミタラセ池は、出雲伊波比神社のふもとに位置し、流鏑馬行事において神聖な場所であると考えられています。ミタラセ池では、稽古じまいの日に乗り子が身を清める儀式が行われます。11月2日には、祭馬一行は、重殿参りで神社に上る前にミタラセ池を訪れ、馬を清めます。

5.出雲伊波比神社

木々に囲まれ、石台の上に築かれた出雲伊波比神社の写真

 流鏑馬の舞台、出雲伊波比神社は、県内最古の神社建築で、本殿と棟札が国の重要文化財に指定されています。康平6年(1063年)、源義家が奥州を平定し、凱旋の際、戦勝の御礼に当社を訪れ、八幡社を建て流鏑馬を奉納したといわれています。
 八幡社は本殿に合祀され、本殿は、大永8年(1528年)、毛呂郷の領主、毛呂顕繁により再建されました。境内に馬場をもつ珍しい神社です。

6.勝海舟の幟旗

柱の頂上に榊の葉がついている、2つの大きな幟旗が立てられた写真

 11月2日早朝、神社の参道に大きな幟旗が立てられます。この幟旗は、長瀬一区、長瀬二区の氏子が立てています。幟旗は神が訪れたことを表す飾りで、柱の頂上は榊の葉がつけられます。幟旗には「鎮守 御祭礼 明治二十三年十月 海舟勝安芳」と「鎮守 御祭礼 長瀬氏子中」とあり、幕末から明治維新に活躍した勝海舟が、長瀬氏子中の求めに応じて書いたといわれています。
 現在の幟旗は複製で、原資料は町の指定文化財に指定されています。

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