苦林野歴史散歩
散策モデルコース(約3.5キロメートル、所要時間1時間30分~2時間)
- 歴史民俗資料館
- 市場・西大久保境の掘割遺構
- 大類・川角境の掘割遺構
- 諏訪ノ森の庚申塔
- 崇徳寺跡・延慶の板碑
- 堂山下遺跡
- 苦林野古戦場跡
- 神明台の庚申塔・馬頭観音
- 大類古墳群・十社神社
- 苦林古墳・苦林野合戦供養塔
- 大薬寺
- 歴史民俗資料館
1.歴史民俗資料館
![レトロな建物内にいろいろな資料が展示されている歴史民俗資料館内の写真](http://www.town.moroyama.saitama.jp/material/images/group/31/160510173015_0.jpeg)
歴史民俗資料館は、鎌倉街道や堂山下遺跡、崇徳寺跡など中世の毛呂山の情報が豊富です。
苦林野の散策には、『文化財散策マップ(1)~歴史民俗資料館周辺を歩こう~』が便利です。
2.市場・西大久保境の掘割遺構
![左側に雑木林がありその横がひらけた路面となっている写真](http://www.town.moroyama.saitama.jp/material/images/group/31/160511185340_1.jpg)
台地を通る鎌倉街道は、地面を掘りくぼめて路面を作る「掘割」と呼ばれる構造が見られます。
県内で最も掘割の特徴が良好に残されているのが、市場・西大久保境の遺構であるといわれています。当時の道幅は3~5メートルもありました。
3.大類・川角境の掘割遺構
![散策道の両脇が木々で覆われた雑木林の奥に少しひらけた場所がみえる写真](http://www.town.moroyama.saitama.jp/material/images/group/31/160412112517_1.jpg)
市場・西大久保境の掘割遺構から、大類・川角境の掘割遺構に至る鎌倉街道上道は、すぐれた交通遺跡として文化庁『歴史の道百選』に選ばれています。
武蔵野の雑木林を貫ける大類・川角境の掘割遺構は、新緑、紅葉と、季節毎に楽しむことができる散策道として人気があります。
4.諏訪ノ森の庚申塔
![蝋燭のような形をしている石仏に文字や諏訪ノ森の庚申塔が描かれている写真](http://www.town.moroyama.saitama.jp/material/images/group/31/160412113638_0.jpg)
江戸時代の庶民は、病気や災いから身を守るために石仏を建立しました。諏訪ノ森の庚申塔は、延宝4年(1676年)に建立されてから300年以上も人々の往来を見守り続けてきました。
宝暦12年(1762年)の『川角村絵図』には、「古道鎌倉海道」、「鎌倉道」の文字とともに、諏訪ノ森の庚申塔が描かれています。
5.崇徳寺跡・延慶の板碑
![丸い筒のような形で先が尖った高さ3メートルの延慶の板碑の写真](http://www.town.moroyama.saitama.jp/material/images/group/31/160412112517_2.jpg)
崇徳寺跡は、川角地区の鎌倉街道沿いに位置する中世の寺院跡です。石敷の墓地や蔵骨器、瓦や多数の板碑が発見されました。蔵骨器は埼玉県の指定文化財となっており、毛呂山町歴史民俗資料館に展示されています。延慶の板碑は、現在の場所に移転される前は、崇徳寺跡の中世墓群の中に建っていたといわれています。延慶3年(1310年)と刻まれた板碑は高さが3メートルもあります。
6.堂山下遺跡
堂山下遺跡は、鎌倉街道の越辺川渡河点に広がる大規模集落跡で、中世の文献に登場する「苦林宿」の跡ではないかと考えられています。堂山下遺跡では、建物跡や井戸跡、墓地などが発見されています。
7.苦林野古戦場跡
鎌倉街道沿いでは、たびたび合戦が起こりました。『太平記』にも記述がある苦林野合戦は、貞治2年(1363)に鎌倉公方足利基氏と芳賀禅可(高名)の軍勢による戦いです。総勢3,000人の基氏軍に対し、芳賀軍が800騎で挑んだ苦林野合戦では、基氏軍が勝利しました。
8.神明台の庚申塔・馬頭観音
![畑の前に庚申塔や馬頭観音の石碑が並んでいる写真](http://www.town.moroyama.saitama.jp/material/images/group/31/160510142354_0.jpg)
延享2年(1745年)の庚申塔や馬頭観音が並んでいます。庚申の日の夜に、人間にひそむ三戸(さんし)という虫が、寝ている間に体内から抜け出し、罪悪を天帝に報告しないよう、村人は徹夜で過ごしました。記念に造立したのが庚申塔です。
馬頭観音は、庶民の安寧や交通安全、牛馬の供養などの願いが込められ、盛んに造立されました。
9.大類古墳群・十社神社
![樹木の生い茂った中にある十社神社拝殿の写真](http://www.town.moroyama.saitama.jp/material/images/group/31/160412113716_1.jpg)
十社(じゅっしゃ)神社は、苦林野合戦で足利基氏方で戦死した武将、金井新左衛門ほか9名の英霊を祀ったといわれます。
古くは十首明神と称されたそうです。境内には大類古墳群の円墳が残り、合戦の戦死者のお墓という言い伝えがあります。
10.苦林古墳・苦林野合戦供養塔
![大きな縦長の石碑に千手観音が彫られている苦林野合戦供養塔の写真](http://www.town.moroyama.saitama.jp/material/images/group/31/160412112517_3.jpg)
苦林野合戦で芳賀伊賀守が小塚の上から基氏の陣を見渡したとされるのが、苦林古墳です。古墳上の苦林野合戦供養塔は、文化10年(1813年)に里人によって建立されました。正面に千手観音の浮き彫り像、側面には六観音が刻まれています。かつて、「七夜待(ななよまち)」という風習があり、17日から7日間、人々は日によって本尊を変え拝みました。
11.大薬寺
![入口に灯籠が2つあり瓦屋根の建物「大薬寺」の外観写真](http://www.town.moroyama.saitama.jp/material/images/group/31/160412112517_5.jpg)
大薬寺には、鎌倉幕府五代執権北条時頼にまつわる言い伝えが残っています。弘長2年(1262年)、時頼は、旅の僧に扮して諸国を巡る途中、当地で腹痛になりますが、大薬寺の薬師如来の霊験により、たちまち治ってしいました。境内には、中世の板碑が数多く残されています。
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歴史民俗資料館
〒350-0432
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更新日:2021年12月23日