『太平記』の舞台・苦林野

更新日:2021年12月23日

苦林野合戦

 鎌倉街道沿いの苦林野を舞台に、貞治2年(1363年)、大規模な合戦が起きました。14世紀後半頃の軍記物語『太平記』に描かれた苦林野合戦です。
 室町幕府を開いた足利尊氏の子、足利基氏は、鎌倉府長官の鎌倉公方となり、補佐役である関東管領に上杉憲顕を起用しました。また、下野の武将宇都宮氏綱から越後守護職を剥奪し、憲顕に与えました。
 宇都宮氏綱の重臣芳賀禅可(はがぜんか)は処遇に腹を立て、憲顕が鎌倉へ出仕するのを見計らって襲撃しようとしました。この動きをきっかけに、足利基氏は総勢3,000人余りの軍勢を率いて鎌倉街道を進み、一方芳賀禅可は、嫡子高貞と次男高家に800騎を与えて戦いに向かわせました。
 基氏軍と芳賀軍は、苦林野付近を舞台に激しい戦いを繰り広げました。足利基氏側が戦に勝利し、芳賀軍は宇都宮へ敗退しました。

合戦と苦林古墳

 合戦の舞台となった苦林野一帯には、古墳時代の古墳(6~7世紀ごろの豪族などのお墓)が数多く残されています。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』の「苦林野図」には、前方後円墳のほか、多数の古墳が描かれています。
 その中の1基である苦林古墳(大類1号墳)の上に、苦林野合戦供養塔があります。前面に千手観音像、背面に貞治4年(1365年)6月17日にこの地で、足利基氏、芳賀禅可両軍の戦があったことが刻まれています。

町指定文化財 苦林野合戦供養塔 文化10年(1813)

千手観音像が刻まれている苦林野合戦供養塔の全面写真
漢字の文字が刻まれている苦林野合戦供養塔の背面写真

芳賀高貞が物見に使った苦林古墳 「苦林野古戦場」は埼玉県の旧跡

 『太平記』には、芳賀高貞が「小塚」に上り、基氏軍のようすを窺う様が記されていますが、物見に使った「小塚」こそ苦林古墳と考えられており、古墳上には、昭和8年(1933)に建てられた「苦林野古戦場」の碑があります。

土が盛り上がっている場所に石碑と案内板が設置されている苦林古墳の写真

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