苦林野合戦と伝承

更新日:2021年12月23日

十社神社にまつわる伝説

 『太平記』によると、足利基氏の家臣岩松治部大輔は、基氏の鎧を身につけ、主君の身代わりとして参戦しました。芳賀軍の岡本信濃守が斬りかかってきたところ、岩松の家臣金井新左衛門が立ち塞がり、馬から落ちざまに岡本と差し違え、討ち死にしてしまいました。
 十社神社は、主君の身代わりとなって戦死した金井新左衛門ほか9名の武将が祀られていることから、古くは十首明神と称し、境内に数多く残る古墳は、戦死者の墓という言い伝えがあります。

周りが木々に囲まれており、正面の両脇の柱に紐が結ばれ4枚の白い紙垂がつけられている十社神社の外観写真

「十首明神」の言い伝えがある十社神社

大薬寺の北条時頼廻国伝説

 大薬寺の寺伝によると、鎌倉幕府五代執権(しっけん)北条時頼(ほうじょうときより)は、旅の僧に扮して諸国を廻る途中、当地で腹痛になりますが、小さなお堂に安置された薬師如来の霊験に打たれ、たちまち治ってしまいました。時頼は喜び、お堂は改修され、大薬師寺と称されるようになり、大いに栄えたといいます。
 大薬寺は、苦林野合戦の兵火により焼失し、後に秀賀という僧により再建されたといわれています。大薬寺には明徳2年(1391年)銘の板碑があり、秀賀が亡くなった際の呼び名「希契大師」の文字が刻まれています。

献燈と赤い文字が刻まれた燈篭が左右に設置された白壁の大薬寺の外観写真

北条時頼廻国伝説が残る大薬寺

足利基氏にまつわる伝説

 鎌倉公方足利基氏は、貞治元年(1362年)までの9年間、入間川(現在の狭山市)に陣を敷きました。武蔵野合戦や笛吹峠の戦で足利軍に敗れた新田氏の残党を制するためです。
『源威集』によると、基氏は入間川在陣中、笛の名人である豊原成秋を京都から招き、成秋から笛を習いました。『源威集』には、貞治2年(1363年)、基氏が苦林野に陣を敷いた際にも、笛の稽古をしていたことが記されています。基氏が勇ましい武士であり、芸能を好んだ風流人でもあったことが伝えられています。

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