項羽  (紀元前232年から紀元前202年)

正式には項籍。姓は項、名は籍、字が羽である。一般的には項羽の名で知られている。
秦末期の楚の武将。楚の将軍だった項燕の孫といわれている。項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であった。
紀元前209年に会稽に挙兵し、圧倒的な強さで、秦に対する造反軍の中核となり、20万を超える秦の大軍と決戦、大勝した。これにより各国の軍の指導者達は項羽に服属した。
紀元前206年に、秦の王である一族を殺し、咸陽を焼き払い、楚の彭城を都と定めた。
楚へ帰ると自ら「西楚の覇王」と名乗り、諸侯を対象に大規模な封建を行うが、咸陽に一番乗りして秦を滅亡させた劉邦が左遷されるなど不公平で、諸侯の多くに大きな不満を抱かせた。また、楚の懐王を「義帝」と呼んで格上げしたが、僻地へ移動させたその途中で暗殺した。
紀元前206年、斉の王族、田栄が項羽に対して挙兵すると、これをきっかけに不満を抱く諸侯が続々と反乱を起こした。義帝の殺害を知った「漢王」劉邦は大義名分を得て蜂起し、諸侯へ項羽への反乱を呼びかける。これ以降の楚の項羽と漢の劉邦の戦争を楚漢戦争と呼ぶ。
彭城の戦いでは、劉邦は魏、趙との50万超の連合軍を率いて楚の彭城を占領するが、3万の精兵のみを率いた項羽はこの大軍を一蹴する。その後のケイ陽の戦いなど、当初は楚軍が圧倒的に優勢であったが、人心を得られず、次第に劣勢となっていき、紀元前203年、垓下の戦いにおいて、劉邦に破れ自害した。(この戦いで四面楚歌の言葉が生まれた。)

<練習問題>です。目を閉じて下さい。
問題を読み上げ、続いて、1. 2. 3と数えたあとに、答えを読み上げます。一緒にお答え下さい。

第一問 一般的には項羽の名で知られているが、正式な名前は、何といいますか?
 1. 2. 3. 項籍

第二問 項羽は、紀元前206年に、秦の王である一族を殺し、楚の彭城を都と定めて、自らを『何の覇王』と名乗りましたか?
 1. 2. 3. 西楚の覇王

第三問 項羽は、紀元前203年に、劉邦に破れ自害しましたが、その戦いの名前を、何といいますか?
 1. 2. 3. 垓下の戦い

ありがとうございました。




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